〈アフェットを奏でろ! 発売記念SS『Fiaba』〉
「ましゃくん!」
「ちゃうちゃう、『ましゃ』やなくて『まさき』やで」
初めてあの子に会ったのは、彼女がまだ母親のお腹の中にいる時だった。
俺が3歳か4歳の頃、隣の家に若夫婦が引っ越してきた。
奥さんはその時妊娠中で、世話好きなうちの母親は何かと面倒を見ていた。そして母親に連れられ、俺もよくお隣さん家へ遊びに行っていた。
兄貴はいたが15も歳が離れていた為、妹や弟が堪らなく欲しかった。
お隣さん家にお邪魔する度、お腹の中にいるあの子に向かって『早く一緒に遊ぼうな』と話しかけ、生まれてくるのを指折り数えて待っていたものである。
そして彼女が誕生してからは、まるで実の兄妹の様に過ごした。
例えばお使いに行ったり海へ遊びに行ったりした時、周囲の大人達から『仲の良い兄妹やな』と間違えられる事が、何よりも嬉しかった。
あの子も物心がつくまでは、俺の事を兄だと思い込んでいたらしい。
ただひとつ、かなん事があった。
「……? ましゃくんはましゃくんでしょ……?」
「うーん、それはそうなんやけど……やっぱり、ちゃんと名前を言って欲しいやん?
ほら、もっかいゆっくり言うてみ? はい、まー」
「まー」
「さー」
「しゃー」
あの子は俺の名前『真季(まさき)』が上手く発音出来ず、ずっと『ましゃ』と呼んでいた。
最初はそれすらも可愛いと思っていた。でも兄貴の名前はちゃんと呼べる様になった事が悔しく、自分の名前も呼んで欲しいと願う様になった。
あの日——今日こそは発音を矯正しようと、小学校から下校しそのままお隣さん家へ直行した。しかし小一時間経っても、状況は一向に変化しない。
「はぁ……ほんまかなんなぁ……」
「っ……ぅ……」
「え、ちょ、待って……」
「うわあああんっ!!」
「あーもう、泣かんといてな……!」
「だって、いえな……うぐっ……いえないんだもんっ……」
「べ、別に怒っとらんよ…!?」
「ずびっ……まっ……ましゃぐん〜……」
「あっ、こらっ、鼻水吸ったらあかん!」
泣きじゃくる彼女の鼻にティッシュを当ててやるが、本人はそれでも『ましゃ』と言い続ける。嗚咽が混じって、最早何語だか分からなくなってきた。
「ずっと練習しとったから疲れたんやなぁ……ごめんなぁ……」
「まっ……うぅっ……ましゃ……まじゃ、ぐん……」
「……うん。もう『ましゃ』でええよ」
泣かれるのはかなんが、大切な子が必死になって自分の名前を呼んでくれるというのは、些か気分が良いものであった。
しかしこの調子だと一生泣き止みそうになかったので、俺は『まさき』と呼ばれる事を諦めた。
「うっ……ひっく……ほんとに? ましゃくんでいいの……?」
「あぁ、ほんまやで。男は嘘言いひんよ」
涙で濡れた大きな目をパチクリとさせ、幼いあの子はジッと俺を見つめてきた。
その目元をティッシュで拭ってやり頷けば、今度は花が咲いた様な笑顔になった。
「えへへ……ましゃくんー」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「おい、早く物販に出るぞ。じゃないと場所取られる」
「俺あのボーカル嫌いなんだけど。常連だってほとんど蜜やセフレでしょ?」
「だからって幽君は他所に喧嘩売り過ぎ。この間だって俺が止めなきゃ——……
あれ? ハイネ君どこ行った?」
「アイツならビール買いにコンビニ行ってる」
「またかよ! ったくあの飲んだくれは……。
ヴィシャ君も黙って見てないで、ちゃんと止めろって」
「まーまー、AMANEさんもそんなにカリカリしないで」
都内某所のライブハウス。
高校の途中からヴィジュアル系バンドを始めた俺は、卒業と同時に地元を離れ上京した。
当時結成していたバンドは既に解散してしまったが、紆余曲折あって現在のバンド『Estate』を結成するに至った。
ボーカルの幽、上手ギターのハイネ、ベースのヴィシャ、ドラムでリーダーのAMANE——そして下手ギターの俺を含めた、この5人で活動している。
今日のライブは共演者に有名なバンドがいたので、自分達の出番の後に彼らの演奏を観察する事になっていた。
事務所に所属し、大きな会場でワンマンを開催出来る程の実力を持ち、雑誌の表紙を飾った事もあるバンドなのだが——如何せんボーカルが、掲示板で個スレが立つ程の糞麺であった。実際に楽屋でも、その糞麺っぷりを何度か目撃している。
(本当、演奏は凄いんだよなー……)
『例え糞麺でも、何かを学んでその屍を超えて行け』というリーダーの言葉を胸に、ハイネを除いた残りのメンバーで楽屋から物販へと向かう。
既にライブハウス内には相当数のバンギャが集まっており、物販の中も他のバンドやスタッフで埋まりつつあった。
幸い物販と通路を仕切る柵の横に僅かなスペースが空いていたので、4人でそこに潜り込む。
「ちょっと渚君デカすぎ。もうちょい縮んで」
「無理言うなって。バスケやってたんだから身長はしょうがないでしょ」
そうやってボソボソと会話をしている内に、演奏が始まる合図のSEが流れ始めた——。
END